久しぶりに美学校に出かけた。
赤瀬川先生の考現学教室があるのは毎週土曜の夕方6時からである。
玄関をはいり、靴箱の前で赤瀬川さんと出くわした。
顔を合わすといきなり
「書いてるの?」
と訊かれた。
先生は心配そうな顔をして
「あんまり根を詰めないほうが、ねえ?
ほら、誰だっけ、えーと・・
あ、村上春樹か、ねえ、小説と翻訳をやって気分をかえたりねえ?」
と言われた。
そうか、そんなにひどい顔をしているのか、
と自分でも思った。
その何週間か前に赤瀬川さんに「小説を書きたいんです」
と相談をすると
「いやあ、大島に帰ったほうがいいよ」
とあっさり言われたのだった。
家業を継いでも小説は書ける、と赤瀬川さんは言うのだった。
それからしばらくして赤瀬川さんが当時連載をしていた
アサヒ芸能という週刊誌の「今週のお筆さま」
というエッセイの中にぼくのことが書かれているのを偶然見つけた。
その中には「まあ、若いうちは敷かれたレールをそのまま走るのをとかく嫌がるものである」
と書いてあった。
そうじゃ、ないんだけどなあ、と思う反面そういうことも言えるのかもしれないなあと
少しだけ思った。
大島には大学を卒業したら帰る、と言っていたのだけれど卒業をするころになると、それがいやになりなんとか、東京に残れるよう親を説得してみた。
もともと、学費は自分で稼いで暮らしていたのでその点では心配は要らなかった。
しかし、母には泣かれ、父親は怒って話らしい話はできないまま東京での暮らしに突入していたのである。
が、今となっては、人とろくに話もできないまま電話の天気予報の声をたよりにする男になってしまっていた。 |