さて、物書きの話のつづきである。
それまで朝八時から、忙しく店で働いてきたぼくにとって、一日なにもすることがない、という生活をするのは生まれてはじめてのことだった。
正確にいえば
「原稿を書く」
ために、とりあえずはなにもしない生活を始めたのである。
しかし、朝起きて、パンとコーヒーの朝食を終えるとなんにもすることがなかった。
引っ越しの片づけも終え、部屋はきちんとしている。
それでは、と机に向かったのだけれど書くことがないのである。
とりあえず短編小説をひとつ書いてみようと思っていた。
引っ越しをしてすぐに電話を取り付けてもらったのだけれどその話を書いたら面白いと思ったのだ。
高い契約金を払って電話を取り付けたものの話す相手は、まったくいなかった。
電話を持っている友人がいないのである。
当時は携帯電話もなかったし,それまで一緒に働いていた仲間は新しい職場で忙しくしていることだろう。
こうして朝から部屋でぼんやりしているのは自分くらいなものである。
そこへ電話が入って、嬉しいものの話す相手がいないのである。
ぼくは部屋を出て、アパートの近所を歩いた。
練馬というより豊島園という遊園地の近くでその客の歓声がどうかすると部屋まで聞こえた。
アパートのまわりには店らしい店もなく大島とたいした変わりはなかった。
それまで神楽坂の繁華街で暮らしていたので侘びしいところにきてしまったなあ、と思った。
公衆電話に十円玉をひとつ入れて自分の部屋の番号をまわしてみる。
呼び出し音が鳴り始めると同時にぼくは受話器をそのままに部屋に走った。
部屋では電話が鳴っている。
当然のことだけれど、それが嬉しかった。
そこでドアを開け、受話器を取った。
耳を澄ます。
するとさっきまでぼくがいたあの公衆電話の近辺の音らしきものが聞こえた。
こつこつ、という足音が近づいてきてまた遠のいていった。
嬉しいような寂しいような気分になった。
そんな話を書こうと思った。 |