自分が今見ている物に現実感が伴わないことは、生活する上で、特に問題になることもなかった。
今見ているもの、たとえば部屋の隅にある小さな作りつけの台所の蛇口から水滴がポトポトと垂れている。
この風景を夜中に眺めていてそれに現実感が伴わないからといって悩むことなんてないのである。
ただし、人と会って話しているときにその「感じ」が出始めると何となく嫌だった。
その人はぼくに向かって話してくれているのにぼくはテレビを見るような、誰かが先に撮ったものをもう一度見ているような印象を受けるからだった。
かといってデジャブのような感じとはまったく違っていた。
子供のころはその「感じ」を小人のせいにしていたのだろう。
自分を取り巻く日常を見ても現実感を伴わないのならそれは自分が見ているのではなく、中の人が見ているのだと思ったほうが気が楽だったんじゃないだろうか?
いや、違うな、小人と自分は一体でいつも彼らと話をしていたんだ、と思った。
そこで子供の頃のことをもう一度思い返してみた。
それがいつ頃から始まったのか、を考えてみたのである。
一番最初の、その人たちに関する記憶は、よくわからなかった。
しかしその人たちが身体の中に棲みはじめたのと前後して母親が病気となり、家からいなくなったように思った。
記憶のなかでは、祖母と共になにかをしている自分の姿である。
机に向かって勉強をしているときになると眼がおかしくなって、遠近感がまったくなくなることも思い出した。
望遠鏡を逆さにしてみたときのあの遠い感じが自分の机のうえに拡がっていたからだった。 |