はじめに、自分はおかしいのか?
と気付いたのは、赤瀬川さんの授業を受けているときのことだった。
赤瀬川さんの授業は「見ること」
についての話が多かった。
路上観察もそうだし、トマソンにしてもそれは同じである。
しかしそれを掘り下げる力はすごいものがあってとにかく自分でチラッと考えたことを延々と生徒に話してゆく。
まるで精密機械をひとつひとつ解体してゆくようでその不思議な考え方にいつも驚かされた。
その赤瀬川さんの話の中に子供の頃に感じていた自分を取り巻く世界の話があった。
赤瀬川さんは自分の見ているものは巨大な紙芝居のようなものがいつも用意されていて
その裏側をみようとするのだけれどそれができないのが不思議だった、という話をした。
そこで自分はこうだった、という話をぼくはした。
つまり自分の中に小人がたくさん棲んでいてその人たちに見せるために自分は動いていたのだ、と話した。
「それは危ないねえ」
と赤瀬川さんは言った。
言われたのはその一言だけだったのだけどそれがひどく気になった。
なにが危ないのか、少しもわからなかった。
というか、そんなことは当たり前のことだ、と自分では思いこんでいたのである。
まあ、子供のころの話だし、そんなに気にすることはないと思ったのだ。
しかし、夜中に練馬のアパートに帰ってきて一人でテレビを見ているときに
突然またその感覚が蘇ったのである。
それで「どきん」としたのだった。 |