竹芝を夜10時に出航したサルビア丸は、土曜日の早朝6時に岡田港に着岸した。
20年ぶり(いや、それ以上か)の伊豆大島である。念願かなって「御神火」の蔵、谷口酒造を見学させていただくのだ。杜氏でありながら「一円大王」の著者という作家の一面もお持ちの異才。その著書のカバーを飾る著者像は、南伸坊氏のイラストだ。写真ではない、イラストである。そう念を押しておきたいほど似ている。コインのように丸いふくよかなラインで描かれた谷口さん、実物もまさしくそのとおりのキャラクター。この丸い温厚なインターフェイスの底に、繊細で豪胆、強靭な意志と透徹した感性が潜んでいる。谷口さんとは、焼酎の会や神楽坂の焼酎バーでご一緒したことはあった。だがカウンターに座っている谷口さんから焼酎を造っている姿を思い浮かべるのは難しかった。
赤身をワサビしょうゆに浸しながら、時速160キロで海中を疾走するマグロを想像するようなものだ(ちょっとちがうかな?)。
谷口酒造には「御神火」というサイトがある。
蔵や島の紹介、もちろん商品のコーナーなども充実しているホームページだが、その中にほぼ毎日更新される日記がある。
蔵に出る朝のひと時、パソコンに向かって綴られるこの「一円大王」日記を読んでいると、物書きとしてより焼酎を造る谷口さんの姿と気持ちが伝わってくるような気がしていた。一人で造り、奥様が事務と販売。通いの女性従業員さんがふたり。
およそ工場という概念の最小単位といっていい。
ひとりで造っていると、手も離せない気も散らせない時間が連続してあるはずだ。造りの時期に杜氏としての仕事のリズムを狂わせる最大のものは、事前連絡も無く手前勝手に押しかけて見学を要求する客だろうとは予想がつく。事前連絡しても造りを煩わせるのはいっしょだ。それでも蔵を見てみたい。モロミが動き、蒸留機が唸り、湯気に包まれる蔵に行ってみたい。そうひそかに願っていたら・・・電話が鳴った。願えば叶うという信念は飲み友達に言わせるとご都合主義的だそうだが、ほら見ろ、正しかった。

「そろそろ造りを終わります。麹作りは終わりましたし、いま仕込んでいるもろみを蒸留したらお仕舞いです」と城達也ばりの渋い声が受話器の向こうから朗朗と響いてきた。
「土曜日に蒸留しますが、どう?」
「行く!行きます!行かせてください!」




港の沖で停泊していたさるびあ丸は、夜明けとともに機関を始動。6時定刻に岡田港に入港した。うかつなことに小生はここを元町港と勘違いしていた。昨夜の二等船室はよっぱらいオヤジたちのイビキの交響でとても寝られたものではなかった。蔵まで歩いても30分はかからないだろうしちょっと仮眠してゆこうと思った。それが二つ目の間違いだった。船が着岸してまもなく元町港行きのバスが発車していたのだった。7時半のバスで元町港へ。そこでバスを乗り換えた。初老の運転手氏が発車時刻になるのを待っていた。

「ノマスに行きますか?」
「ノマシだよ。行くよ。10分はかからないな」とぶっきらぼうだが的確な返事。ほっとした。

まだ雨は落ちてこないがどんよりと雲が暗くて低い。港近くの商店はまだ閉まっている。人影もすくない。くさやの看板がやけに目に付く。海沿いの道をバスはけっこうなスピードで走ってゆく。客は小生一人だったが、案内テープが「次はノマシ」とアナウンスしたので下車ボタンを押した。降りたところに都合よくおばさんが立っていた。蔵の場所を尋ねたら、「焼酎をつくっている・・・」とみなまでいわせずにオバサンは「右の道をずっとゆくのよ。すぐわかるわよ。お墓のそばよ。」とこれまた的確に案内してくれた。
オバサンの言ったとおりだった。谷口さんの蔵はすぐにわかった。建築史家藤森照信氏が初めてこの蔵の場所に立ったとき「伊豆大島はナマコ壁のバラック浄土」だと言った(ご本人のレポートにそう書いてある。詳しくは掲載の記事をお読みください)。
一種非日常的な空間と見えたのは貯蔵庫になっているそのナマコ壁の建物と、一対をなす黒っぽい工場、そしてその鶴翼の布陣のまんなかに屹立する不思議な建物のせいだろう。「雪ダルマがバケツの帽子をかぶって手にホーキを持つような姿」とはこの「ツバキ城(屋根のてっぺんにツバキの木が植えてある)」の設計者である藤森氏ご自身の言葉。
さすがにインパクトの強い造形だ。なのになぜか知的雰囲気とか南ヨーロッパ風の落ち着きとか言いたくなるほどの風情を醸し出している。蔵の周りを目つきするどく見回りメモをとっていた小生、近所の人が見ていたら税務署員かと思ったかもしれない。
8時をすこし過ぎたとき、一台の四輪駆動車が登場した。谷口さんご夫婦と愛犬テツくん(柴犬)の出勤である。奥様の香(かおり)さんはグラフィックデザイン畑の出身。この蔵の製品のグラフィックは奥様が担当されているのだろう、どれも秀逸である。
「テイスティングといっても蒸留直後の度数のつよい焼酎です。しっかりおなかを作ってくださいね」と、シラスがたっぷりはいった豆ご飯と薫り高いおみそ汁を用意してくださった。滋味に富んだじつに美味しい朝食をいただいた。
ごちそうさま、準備完了です!


奥様とテツくんはツバキ城へ。大王は蔵の扉を開ける。

モーツアルトが流れる蔵の中で、谷口さんがもろみに櫂をいれている。これから蒸留するタンクだ。モーターをセットしホースをつないでもろみの搬送が始まった。ときどきタンクに櫂をいれ、最後はタンク自体を傾けてもろみを残らず蒸留機に送り出す。
蒸留開始。もろみに蒸気が吹き込まれ始めた。
「なんだかどきどきしますね」と、モチヅキさんと話す。
きょう蔵でご一緒する方だ。大分大学の教授で食物学を研究されている。農学博士でいらっしゃるけれど、「ハカセ」とカタカナで呼びたいくらい邪気のない笑顔がいい方だった。大学の仕事とは関係なく「焼酎にぞっこん」なのだそうな。
「あ、でました」とモチヅキさんが言った。
みると冷却槽から蒸留機の下へと取り回されたパイプの先から勢いよく焼酎が垂れ始めている。谷口さんがガラスコップに掬って香りと味を見た。すぐに吐き出してうなずく。小生にコップをわたしてくれた。
顔に近づけただけで蒸留したての焼酎特有のガス香が強く広がる。ハナタレのハナである。60度以上はあるだろう。強さの中にかすかな柔らかさを感じた。
コップをモチヅキさんに渡す。コップに鼻をつっこんだハカセの顔にえもいわれない嬉しい表情が浮かんだ。2、3分後にまたひとすくい。わずかこれだけの時間経過で味が変わっていることに驚いた。

テイスティングを繰り返しながら、こまめに蒸気と冷水の調節を行う。そしてその結果がすぐ垂れてくる焼酎の味わいに出る。今は原酒を造っている最終工程なのだなとあらためて思う。ひとりでこの作業をしているときに見学者の相手などできるものではない、それがよくわかる。
モチヅキさんと小生は、杜氏に密着し、蒸留の全過程を、垂れてくる焼酎の色を、香を、味をみながら共有するという、まことに得難いそして幸せな経験をしているのだった。火をたき、冷却しつつ原酒を造っていく緊張の3時間。谷口さんの五感が原酒の最終形にむけて研ぎ澄まされてゆく。ハナ垂れ、中垂れ、そして末垂れと言葉にすればそうなることのそれぞれの過程と生まれる焼酎の香味の複雑さ、深さ。午前午後の二回の蒸留にすべて張り付いての作業が終わったのは午後3時半。
「きょう蒸留した焼酎は、おなじ白麹でもいつもとは型のちがうものを使ってみたんです。」
L型というその白麹、S型よりも香がたつ麹なのだそうだ。

午前中に蒸留した原酒は前半部分と後半部分を別々に取り分けてあった。それを柄杓で汲んでブレンドしたものは蒸留直後にしてすでに熟成を予感させる「御神火」原酒そのものだ。
お昼には奥様心づくしの料理までいただき、恐縮。恐縮したわりにはハカセと二人で全部たいらげてしまった。ほんとに美味しかったです。

午後の蒸留が終わったあとナマコ壁の貯蔵棟へ。貯蔵タンクから原酒を汲んでテイスティングさせていただいた。熟成時間の違う麦の原酒。製品とする前の芋原酒。どれも感動のうまさだ。気がつくと帰りの船がでる30分前。杜氏に密着した一日はことばにならないほどの満足と感謝で終わった。蒸留機の前に立ちながら、そしてお昼のテーブルを囲みながら谷口さんといろいろな話をした。蔵としての経営効率は企業であるかぎり考えなくてはならないのは当然だ。そして職人として向かうベクトルはまたそれとは別にあるのもたしか。本格焼酎を扱う(あるいは扱いたいという)酒販店との接合面ではいろいろな問題があるだろう。だが、お互いの価値観の差違を知って、なおそれを超えて協働できる関係をつくってゆくのが大事なのだろうと思う。そうそう、谷口さんには彼でなくては書けないテーマがある。港まで送っていただいた四輪駆動車の中で、杜氏のことを書く最適の作家なんだから、焼酎造りをベースにした「小説」をひとつお願いしますよ、と脳天気に言った小生に、「一円大王」の表紙そのまま、まんまるの笑顔が返ってきた。

雨の大島。御神火の蔵もやがて今期の活動を終える。酒を生む蔵から蒸気が立ち上る。火と水の修羅からひとの心を温める酒が産まれる。おひるにご案内いただいた、蔵の裏山、水源地ちかくの椿のトンネルに、一輪二輪真っ赤な残りの花が鮮やかに咲いていた。

焼酎は知恵と感性を注ぎ込んで造る。だが体力がなくては始まらない。蔵の中の作業は体を動かし手を動かさなくては何もカタチをなしてこない。筋肉の疲労も精神的な疲労も造りを続けるうちに、知らず重なり、厚みを増してくる。体をやすめ、気を散じて自分のなかに「空」を作ってください。次のチャレンジのため、さらに元気を生むために。谷口さん、奥様ありがとうございました。ハカセ、またお会いしましょう。

おわり。


左は酒母、右は発酵するもろみ。どちらも力にあふれている。
仕込みにかけた汗と熱が、力のある酒を産む。



谷口酒造の造る酒。ここでしか購入できない
「いも太郎」(右)の濁りは魅惑的だ。



つばき城の中は手塗りの漆喰壁。

工場の隅にあった杜氏の机。

ヒョウタンからモーツアルト。