Photo: Eikyu Taniguchi

 旅の記憶は夢の断片に似ている。
一九八四年の七月から十一月にかけて、中国を一人で旅して歩いた。
 当時の日記をめくるとチベットのラサからトラックのヒッチハイクをしながら標高五五00メートルの雪山を越えてゴルムへ抜け、そこから西寧(シーニン)という街へ出ている。
 日本では日航のジャンボジェット機が墜ちた年のことだ。
 夢のような柔らかい感触の記憶は、その西寧から蘭州へと走る夜行列車の中で起きている。
 その日ぼくは朝食を食べるとすぐにホテルから駅へと出て蘭州行きの切符を買った。手帳には西寧発、蘭州行一七八次直快、十六時四十八分発、二十一時五十七分着、硬座と書いてある。
 切符を買うときはいつも外国人料金を払いたくないために中国人に混じって長い列に並んだ。
 当時外国人は中国人民の三倍のお金を払わなければ切符は買えないことになっていた。そのためになるべく中国人に近い発音で、いっきに言う。けれどもその日は実に混んでいて、列はなかなか進まなかった。
 ホテルに荷物を置いてきたために、いったん戻らねばならず、焦ってはいるのだけれど、列が進まないことには、切符も買えない。
 そこに六歳くらいのオカッパの女の子が現れてぼくの脇に立ちニコニコ笑いかけてきた。
 顔は浅黒く、服も汚れている。
 そのときは、ぼくの前に立っている頭の薄くなりかけた四十代の漢族の男と、眼のドロンとした、文句ばかり言っている太った女の連れ子なのだとばかり思っていた。
列と列のあいだには鉄柵があり、女の子はその鉄柵にもたれたり寄りかかったりしながら目が合うとニコニコする。
 切符を買ってあわててホテルに戻り、荷をまとめてようやく四時四十八分発の列車に乗り込んだ。
 切符を買ったときにはあんなに混んでいたのにこの列車はたいして混んでいない。
硬座という一番安い席は四人掛けで、ぼくの目の前には角刈りのエラの張った物静かな農民のような五十代の男と、その奥さんらしい、よく日に焼けた女性が座っている。二人とも上海まで行くのだという。
「おまえさん香港人か?」
と訊かれたので、かぶりを振って
「日本人だよ、これから蘭州まで行くんです」
と中国語で答える。
蘭州までは約五時間の行程で、そんなことを話しているうちに列車は走り出した。
 夕飯はボール紙に入った弁当を買って食べた。
 夫婦は持参の万頭(まんとう)を四角い手提げ鞄の中から取りだして食べている。
 もう日も暮れて列車は夜の中を走っている。線路の脇の白い土の道を走る自転車の灯が闇の中でヒュッ、ヒュッと飛ぶように遠ざかってゆく。
 するとまた、さっきの女の子が現れた。薄暗い車内でぼくと目が合うとパッと笑顔になった。顔が浅黒いために目の白さが際だって見える。屈託のないきれいな目だった。
「ここにすわれば?」
ぼくは日本語でそう言って女の子に席を勧めた。ぼくの隣の席である。女の子は頷くとすぐにそこに座った。
 言葉は一言も交わさなかったように思う。女の子は目が合うたびに微笑むだけだった。
 しばらくすると目の前の夫婦がその女の子に
「おまえさん、父さん、母さんはどうしたんだ? 一人なのか? 」と話かけた。何の気なしに話しかけた言葉が次第に詰問調になってゆく。
 周りの人々が一斉に女の子を見る。女の子は顔を腕で覆ったまま動かない。隣の席の漢族の女がやはり大きな声で女の子をつつきながら
「どこまで行くの? 一人で上海まで行くつもりなのかね?」
と問いかける。
 車内の空気はザワッとしたあと一瞬、静まりかえった。
 ぼくが目の前の夫婦を見ると角刈りの男は
「一人で来たんだ、親もいないらしい・・・」
とだけ言った。
 女の子は固まったまま二度と顔をあげようとしなかった。
蘭州に着く前にポケットからお金を少し取りだしてこの男に預けようとした。
「上海までの食事代、この女の子に何か買ってやってくれませんか?」
ぼくがそう言うと男は首を振り 
「この子は私が責任を持つから大丈夫、あんたの心だけ貰っておきます。ありがとう」と言った。
列車を降りる前、顔を隠してうつむいたままの女の子の肩に手をかけてぼくは
「再見」(ツァイチェン)
としか言えなかった。
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