工場の中に入って様子を見,作業の労苦を知って,設計はひとまず“おあずけ”となった。新しい建物を作るより,作業の労苦の減少に資金を振り向ける方がいい,と思ったのだった。で,大嶋君に,作業軽減のための特殊ポンプなど諸機械について調べてみるよう言い残して,岡田港より熱海行きの船に乗り,熱海→東京の路線で家に帰った。
そのように記憶しているのだが,さっきファイルを見返したら,自分の記憶には美化があるのが分かった。わずか二年前のことなのに,自分がその時に下した“おあずけ”という判断には美化作用が働いて,その結果を今は記憶しているのである。設計より作業軽減の方が大事と,施主の谷口氏のことをおもんばかっているが,そして,そのように谷口氏,大嶋君には伝えて島を去ったことにウソはないのだが,ファイルを見ると,一枚のスケッチがあって,
「1988.6.22 大島から帰って翌朝第一スケッチ」
と記入されているではないか。“おあずけ”を決めたものの,やはり創作心のうずきは抑えがたく,帰宅の翌朝に最初のスケッチをしている。スケッチの紙の裏を見ると,文化庁の文化財関係の委員会の通知が印刷されているから,新聞を見たり,前日に届いた郵便類を開封したりした後のつづきにスケッチしたのだろう。
スケッチの内容は,配置計画とデザインの大筋についてで,現在の工場のどこにどう手をつけるか,を考えている。
まず,配置計画については,既存の工場施設のすべてを取り壊さず,再利用しようとしている。ということは,このファイルの日付を見て反射的に思った「創作心のうずきのウンヌン」は,あくまで施主のことを思っての“おあずけ”を大前提にして,余った資金で出来そうなことを探っている。われながら殊勝。
再利用に当たっての配置計画の原則が左肩に次のように記されている。
分棟配置}
→ピサ(伊)の美学
芝の上に}
これは何を意味しているのかというと,イタリアの例の斜塔で有名なピサのカテドラルの配置に学ぼうということ。具体的には,広々とした芝生の上への分棟配置。
われながら,伊豆大島の一人親方の焼酎工場の,それも再利用くらいにピサでもあるまいに,と思うのだが,そう書かれているのだから仕方ない。ちゃんと説明せねばなるまい。
私はピサのカテドラルが好きだ。といっても,例の斜塔,大聖堂,円形の礼拝堂の三大建築よりはやや引いた位置にある埋葬堂にいちばん引かれている。窓らしいものがなく,やたら横長の壁面に出入口が一つあいているだけの本来無口な構成なのに,けっしてうっとおしくないし,めくらアーチが連続する壁面が静かに語りかけてくる。外観以上に好きなのは厚い銅板張りのドアーを押して入った中の回廊で,これほどパワー溢れる回廊は世界でもまれではないか。とにかくデカイのだ。
しかし,こうした埋葬堂のデザインに学ぼうというのではない。学ぼうというのはあくまで全体の配置計画。ピサの配置計画に近代の建築家ではじめて着目したのは,むろん私ではない。コルビュジエだ。実現していたらコルの代表作にとどまらず,20世紀建築の最高峰になっていたにちがいない例のソヴィエトパレスの全体構成は,実はピサを下敷きにしている。これは私の説なんかじゃなくて,コルが自分の作品集のなかで絵入りで説明している。コルが自分の設計の元ネタを明らかにしたのはこれくらいだから,よほど強い影響を受けたのだろう。
ピサの配置の特徴を一言でいうなら,“大小凹凸長短丸角さまざまな形をもった建物が,離れて建ちながら,しかし,お互いに引き立て合い,一つの緊密な場を形成する”ところにある。コルにとって重要な外部空間構成原理の発見だったが,しかし,コルに続くコルビュジエ派の建築家にどれだけ意識されていたのか疑問で,分かっていたのは丹下さんくらいじゃなかったのか。丹下さんのデビュー作の広島計画(ピースセンター)の配置計画は,ソヴィエトパレスに学んでいる。ピサ→コル→丹下,と流れる外部空間の構成法に私は魅せられてきたから,小さな工場の再利用くらいでもつい「ピサ(伊)の美学」なんて口走ってしまうのである。
ピサ→コル→丹下,を意識してるがゆえに「分棟配置」とメモしているのだが,ここでちょっと読者諸兄に留意しておいていただきたいのは,メモの構成で「分棟配置」と「芝の上に」の二項目を合体して「ピサ(伊)の美学」となっている点。分棟配置と同じだけの重要性を藤森は「芝の上」に与えている。
ピサを知る前から気づいていたことだが,芝生や草にカバーされた真っ平らな敷地というものには格別な意味がある。芝生や草でなくともいいが,土の露出や立木,背丈の高い草の類は困る。ついでに花もいけない。芝生や草といったごく背が低く地面にジュータン状に広がる植物なら何でもいいし,植物以外でも,玉石とか白っぽい砂利も問題ない。
ようするに,清浄感ただようようなグランドカバーなら何でもかまわない。そしてもうひとつ,そのようにカバーされた土地が真っ平らである必要がある。たとえゆるやかでも起伏は望ましくない。清浄にして水平。
清浄にして水平であれば,四角とか不定形とかの別は問わないし,広さも,あるていどあればいい。敷地の境は,かっきり区切られない方が好ましいが,不可欠の条件ではない。敷地の外は,工場,住宅,ビル,超高層,何でも来い。ただただ,あるていどの面積が清らかで真っ平らであればいい。
そういう条件を満たす時,敷地は特別なパワーを発揮する。そこを場として立つ建築に,ちょっと例のないような風格,品位を与えてくれる。崇高さ,精神性といってもいいかもしれない。
藤森は,伊勢神宮のような神社建築や,そうした日本のカミサマ用空間の源にあたる縄文時代の宗教祭祀遺跡なんかについての見聞と長年の研究のなかで,すでに,
清浄+水平=精神性
の足し算を知っていて,それで,ピサを見た時に,この魅力は分棟だけでなく,真っ平らな芝生にあることを確認していたのだった。コルも丹下も,そこには気づいていなかったと思われる。コルの全集を開いてピサとソヴィエトパレスを並べたスケッチを見ていただければ分かるように,ピサの地面を示す水平線は弱々しく適当だし,地面より背後の山脈に視線を向けている。ソヴィエトパレスの方はもっと脱地面的で,地面の線はフラつき,手前の川面に映る建物の影の方に気を取られているのが分かる。1931年,当時のコル大先生は,分棟の魅力に気づいたが,大地の力にはまだ気づいていなかった。ちなみに,コルが大地に目を注ぐようになるのは,ソヴィエトパレス案より数年してからで,本格化するのは戦後になる。その成果がロンシャンの教会。
話を戻して,大島から帰った翌日のスケッチである。すでに分棟状態にある工場の三つの建物の分棟性をより強調し,平らな芝の上に立つようにしよう,と配置計画について考えている。そして,三棟の建物については,構造には手をつけず,仕上げだけを変える作戦に出ようとしていることが,スケッチの下の方の立面スケッチと,三棟それぞれへのメモで分かる。
たとえば,立面スケッチが描かれている貯蔵場を見ると,下半分は既存のナマコ壁なのだが,その上のトタン板張りのところには,「板 焼杉」と「石 溶岩入りしっくい」と二つメモがある。換気窓のところには「マズイマド」とメモ。つまり,トタン板と窓を取っ払って,杉の焼板か三原山の溶岩の砂入りの漆喰に変えようとしている。焼板か溶岩かという二者択一も珍しいが,三原山の火を強く意識していたにちがいない。
左右に工場を控えさせ,前庭に面して正面に立つ背の低いバラックは,ビン詰め場,出荷場など雑作業場として使われている心底見劣る建物なのだが,その外壁には「ナマコ壁」のメモがあり,現状の南京下見を一気にナマコ壁までランクアップしようというのである。
今思うと,このスケッチが実現しなくてよかった。もし,三棟の仕上げを溶岩砂入りの漆喰や焼板やナマコ壁に変更する資金があるなら,当初の計画どおり,書斎・事務作業・商品展示のための一棟を実現できるだろう。
今,こうスケッチを見返し,仕上げについてのメモを読むと,設計者はいったい何を考えているのか,と見識を疑わざるを得ない。ナマコ壁はいいとしても,焼板と溶岩砂入り漆喰の二つは何なんだ。共通性をあえて探せば,火ということになるのだが……。
おそらく,谷口氏に車で案内してもらった三原山の火口原の光景がイメージの中にしみ込んで,それが翌朝,噴火したにちがいない。火山の火口原は,基本的に死の世界で,どこまでも噴火で噴き上がった岩と砂が続く。古い火口原には草も生え始めているのだが,14年前の大噴火の跡にはただただ黒々とした堆積物が広がるばかり。
火口原の小高い丘に立ち,まだ余熱の残るような光景を望めば,設計者なら誰だって本能的に,この噴出物と取り組んでみよう,と思っただろう。死の世界にちがいないが,地球の中味というか,採りたての地球というか,絶対的な清浄感がある。木材にたとえるなら,太い広葉樹の丸太を製材してもらって,最初にパッカリ中が見えた時に近い。
そういう採りたて,見えたての,何億年,何千年ぶりにはじめて空気に触れた材料を目にすると,自分のなかの素材感覚がプツプツ粟立ってきて,サア,使いたい,取り組みたい。
溶岩なんかでマサカ,と思う読者もいるかもしれないが,素材感に敏感な者は大げさでなくてそうなってしまう。先例もある。吉村順三だ。吉村先生が75年に作った<木曽カントリークラブハウス>の屋根には溶岩が載っている。それも,ただ載せてあるんじゃなくて,コンクリートの屋根スラブに「アスファルト防水火山砂利焼付け石置き」という具合に取り込まれている。努力の割に視覚効果は薄いのに,なぜ吉村順三はあえてやったのかというと,頭上に広がる木曽御岳山の中味にいたく刺激されたからにちがいない。
私も刺激された。そして,使ってみたい,と考えた。で,翌朝,漆喰の中に溶岩の砂を加えて外壁に塗ることを思いついたのだった。しかし,実現しなくてよかった。実現しても,火口原のあの光景の味とはちがったものにしかならなかった。きっと。遠くから見ると中途ハンパに灰色で,近づいて見ればただ黒い点々が散るような,そんな漆喰壁が生まれただけ。
漆喰は中にあれこれ混ぜることの可能な仕上げ材で,やってみると病みつきになること受け合いで,小さく切りさえすれば身の回りのものが何でも混ざる。
私がこれまで試した物は,茶ガラ,和紙,布,タタミのイグサ,土,砂,炭,毛糸,オガクズ,カンナクズ,ワラ,墨染めのワラ,モミガラ,炭化モミガラ,発泡スチロール。墨染めのワラなんか京都の工業試験場でわざわざ染めてもらった。試そうとしたが思いとどまった物は,お米,鉛筆の削りカス。米粒と鉛筆の削りカスをやろうとして,これは間違ってる,と気づいた。混ざるからといって何でも混ぜていいはずはない。何か,ルールがあるはずだ。それを踏み外すと美しくならない。そういうルールがあるにちがいない。もしないなら,漆喰はダメなヤツ。
漆喰は決してダメなヤツではなくて,私のこれまでの試行錯誤の結果に照らすと,土とワラの二つは漆喰に混ぜて合うが,それ以外はやめた方がいいように思う。もちろん溶岩なんてダメ。
一歩,設計に近づいたものの,なかなか本筋がスタートしてくれないのである。