初出:日経BP社、日経アーキテクチュア
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タンポポ・ハウス,ニラ・ハウス,秋野不矩美術館など,山川草木の素材にこだわる「どこかで見たことがあるようで実はどこにもない」建築をつくり出してきた建築史家・藤森照信氏。 |
今,伊豆大島に小さな建物を計画中で,今年中には竣工にこぎつけたい。その経過を,発端から完成引渡しまで,読者のみなさんに同時中継的に報告しようかと考えている。
私の建物の作り方はかならずしも一般的ではないが,非現実的というわけでもない。その証拠に,これまで公共建築を三つ手がけているが,いずれも最初に先方が示した予算と工期内に納まっているし,竣工後のメンテナンスでも迷惑をかけていない。これはもちろん,共同設計者の技術力とコスト管理のたまものにちがいないのだが,そもそも出来上がった建物の見かけほどメチャクチャはしていないのである。
よく,ではなくて,たまに,どうやったら建物にニラを植えたり,手割りの板を張ったり,巨木を入手したりできるのかと聞かれるが,そのヒミツというか手がかりを,この連載からつかんでもらえれば,うれしい。
さて,建築は電話が鳴るところからはじまる。電話が鳴らなければ,何もはじまらない。誰かから注文があってはじめて舞台の幕があがるという点,ソバ屋の出前に似ているかもしれない。
私の場合,注文はよく知っている人からにかぎられてしまう。別に世間を狭くしているつもりはないが,ソバを届けるまでにいたるのは結局,旧知の人からだけ。公共建築ですら,知己が間に立って中継してくれて,ようやく電話が鳴る。
最初の頃,雑誌に発表すると,それを見た見知らぬ人から電話があるものと思っていた。知り合いの同世代の建築家からそのような効果を聞いていたし,村上徹さん設計の住宅を二つ訪ねた時,「雑誌で知って頼んだ」という施主が一人いて,打率は5割と踏んだのだが,そうはとんやがおろさない。
実は雑誌を見ての電話は二つあった。ひとつは主婦と覚しき女性からで,しかし電話口で話していると,話し込むにしたがい,溝が広がってゆく。トーテンのウリは,“信州地粉の手打ち”といったところなのだが,“値が安い”と誤解している。高いわけではないが,決してローコストじゃない。自然の素材を生かして作ることが“安い”と誤解されるのは,素人のログハウス作りとかああいう世界とゴッチャになっているからだろう。現代においては,野菜でも何でも自然に近い状態の商品ほど高いのは常識のはずなのに。
もう一つはカリフォルニアの本屋で作品集『野蛮ギャルド建築』を見たというレストラン主からの住宅の注文で,これはハナから困った。一回か二回,現地に来てもらえば出来る,と思っておられるのだ。それでは無理と説明すると,「店の方はフンデルトワッサーにやってもらったが,一度も来ずに出来たのに……」。絵と建築を一緒にしないでほしい。
うまくゆかない注文主の話ばかりで申しわけないが,もう一つ。
この時は直接会ったが,こっちの腰が引けてしまいソバを打つ気になれない。ニラ・ハウス建設の時に期せずしてはじまった縄文建築団に興味をもっていただいたのはうれしいが,それをやってほしい,といわれても困る。あれは予定してやるもんじゃなくて,工事が進んでゆくうちにそうするしかなくなってやるものなのだ。施工会社の理解と諦念,施主の人望と若干の経済的ゆとり,そして設計者側の断固たる決意,この三つなしには無理。
施主の人望がなければ,友人,知人のボランティアは寄ってこないし,一度はきても続かない。遠路なら足代くらいだしてやりたいし,せめてアゴ代は欠かせない。久しぶりに知人友人縁者が集まっての作業と大宴会が楽しみなのだから。
設計者側の決意も重要ポイントで,意のないところ煙は立たず。プロの手ではむずかしい,例えば見積もり不能とかそんな素人っぽいことやりたくないとか,そういう戦線に素人軍を投入するわけだから,設計者の心身の負担はまことに大きい。難攻不落の砦の攻略戦とはこういうことの延長上にあるのかと思うほどむずかしい。細心の計画と準備が不可欠だし,問題が出た時はトッサの判断を的確に下さなければならない。道具ひとつの不足で全員立往生するし,判断をまちがうと,みんなそろってズルズル谷底へ。これまで,おおがかりの縄文建築団を三回経験しているが,さいわい一人のケガもなく,無事にすんだ。
縄文建築団のことになるとついつい力が入ってしまうが,注文主との話に戻って,さて,まことに大きな心身の負担をこっちが決意するにはどうしても,これはもう人間とはそういうものなのだからしかたないが,どうしても相手への共感,興味が湧かないとダメ。
伊東豊雄に,過日,この辺のことを聞いたら,「はじめて施主と会った日に,完成の具合が分かりますヨ。アッこりゃダメだなと思うと,やっぱりダメです」。
これまで他人の住宅を二つやって,一つの認識を得た。
<住宅の設計をすることは,相手と親戚になることだ>
完成まではそうも思わなかったが,完成後のメンテナンスでつくづくその感を確かにした。とにかく,次々にやらねばならないことが出てくる。こっちのミスもあるし,向こうの考え方の変化もあり,そのあたりをフォローしないといけない。
ニラ・ハウスでは,あまり重視していない窓から台風時に吹き込みがあったとか,屋根のニラの株分けどきに来ているとか。イッポンマツ・ハウスでは,庭先からもムシが入ってきて虫嫌いの施主が逃げまわり,結局,地面を下げるとか,施主の畑の柿の木を製材して玄関のドアに使ったら虫が湧いてきたとか。ちゃんとメンテナンスをしていれば,親戚状態になるしかないのである。宮脇檀さんのようにたくさん住宅を手がけていた人は,ほんとにどうしていたんだろうか。いたるところ親戚アリ状態だったんだろうか。
そんなわけで,見ず知らずの他人からの注文はものにならず,知り合いだけが頼りの信州地粉手打ちソバ屋の日々となっている。今回の建物はその典型例で,発注者の谷口英久氏は,縄文建築団の古参幹部といっていい。ニラ・ハウスの南の斜面を庭園化した時,土留めのため丸太を打ち込む重労働“杭打ち隊”の隊長役をつとめ,以後,静岡県天竜,新潟県新井と転戦し,赤瀬川原平,南伸坊と並んで全戦参加の戦歴を誇っている。
本業は伊豆大島にただ一軒しかない造り酒屋の一人息子で,東京に出て美学校に入り赤瀬川教室に学び,卒業後は文筆業をめざしてきた。赤瀬川教室からは,南伸坊,渡辺和博,久住章などが輩出し,その後に続こうと努めてはきたのだが,親の引退を機に島に帰り,酒造りに精を出すことになった。さいわい酒造は冬の仕事で,春から秋までは文筆業に励む。『散歩の達人』というKIOSKで売ってる月刊誌で「一円大王」という連載を持っているから,読者のみなさんの目に留まる機会もあるにちがいない。
ツバキ咲き山が火を噴く島での酒造り,といえば聞こえはいいが,たった一人の酒造り。正確にいうと,香(かおり)夫人と二人で島で一年間に消費される酒を造り,余った分は島外に通信販売で届けている。
大島は気候が温暖すぎて鹿児島や沖縄同様,日本酒の発酵には向かず焼酎を造る。麦の焼酎で,伊豆七島の酒は古来すべてそれだという。七島の各種焼酎のなかではトップにあり,鹿児島にも負けないと本人は申しているが,下戸の私には判断のしようがない。
島に帰って三年。ようやく酒造りにも慣れて,私のところの電話が鳴ったのだった。古い工場の一画に,新しい事務所を作りたい。機能は,事務所と商品展示室と書斎。事務所は夫人用で書斎は自分用。予算は二〇〇〇万円。どのような条件であれ,谷口氏からの依頼を私がことわるということはありえない。共同設計者は,ニラ・ハウスの時の大嶋信道以外にありえない。
かくしてとにかく現場を見ようと,藤森と大嶋は大島に出かけたのだった。
驚いた。バブルの嵐の跡がどこにもない。リゾート開発とかリゾートマンションとかは毛筋ほども見当たらない。聞くと,14年前の三原山大爆発の時,不動産開発資本は出て行ったきり戻って来ないのだという。で,すべては昔のまま。現在,島のテーマは,開発をどうやってすすめるかどころじゃなくて,大爆発の時の数カ月の無人島化を機に人口より増えてしまった猿口にどう対処するか。土地は坪千円。大噴火の後,島は眠りこけているのである。ツバキ咲き,山も人も眠る島。景色は美しい。ツバキも見事。魚もうまい。クサヤもある。その島で谷口氏は,どこにも負けない焼酎造りに励みたい,というのであるから,そのヘッドクオーターの名前は,ツバキかクサヤだろう。ツバキの英名はカメリアだが,カメリア・ハウスではアブナイ宝石商みたいだから,
<ツバキ城>
とした。今したばかりで,そのうちツバキシャトウーとかに変わるかもしれないが,まずはこれでいこう。クサヤ城よりはましだろう。
古い工場を見に行った。後に三原山を負い,前に海の広がるなかなかの立地だ。島のどこもそうだから有難味は薄いが,前方が開けているのは気持ちがいい。
車窓から工場が見えた時,私の建築史の知識は混乱させられた。どうしてこんなところにナマコ壁の建物が立っているんだ。ナマコ壁といえば,倉敷とか伊豆松崎とか,とにかく江戸時代に栄えた地域の特産だ。ツバキ油とクサヤの富でナマコ壁が作れるものだろうか。
聞くと,今は少なくなったが,昔はけっこう建っていたという。富は別にして地域だけからみると,大島は今は東京都の内だが,かつては伊豆の一部で,伊豆の誇るナマコ壁が大島まで流れ着いても不思議はない。
ナマコ壁は日本の左官工事のなかでも手がかかることで有名で富の象徴といっていいものなのに,どうして大島で可能になったんだろう。あなどりがたし,ツバキとクサヤ。
が,しかし,近づいて工場の壁を見ると,おかしい。腰壁のナマコ壁は平瓦と白漆喰でちゃんとしているのだが,その上の壁がトタン張りペンキ塗りではないか。ベコベコ。日本の仕上げ界の富者と貧者が同居している。こんな同居は見たことも聞いたこともない。
工場の中に入り,暗い中に並ぶホーロウ製のタンクの間からのぞく壁を見ると,これまたおかしい。上の方のトタンの下地が木摺りで,それが丸見えなのはいかにも即物的で工場建築らしい風情なのだが,その下の方の腰壁のあたりも同じなのだ。
木摺り下地のナマコ壁。
最貧の下地の上に展開する最富の左官仕事。たしかに,それは可能で,木摺りの上にトタンを張るようにして平瓦を釘止めし,目地に白漆喰を盛れば一丁上がり。
カッカッカッ ザマミロ イシヤマ
フジモリの哄笑は,大島北方の伊豆松崎の町にとどろけとばかりに薄暗い工場に響き渡った。
伊豆松崎には石山修武の名作<伊豆長八美術館>があり,その腰壁には全国の選りすぐりの左官職人が腕をふるったナマコ壁が張られている。それは見事なものなのだが,しかし,同じものがトタン張りなみに出来ているのだ,わが大島では。名人上手のナマコ壁とバラックナマコ壁,どっちがいいかといわれれば前者だが,どっちがおもしろい,と問われれば,バラックの方だろう。島は別世界と聞いたことがあるが,わが伊豆大島はナマコ壁のバラック浄土だったのである。
で,今回の仕事の外壁のテーマは決まった。
“だれも見たことのないナマコ壁を作ろう”
ここに,伊豆松崎のイシヤマナマコ壁対伊豆大島のフジモリナマコ壁の決戦の火ぶたは切って落とされたのである。イシヤマのまったく知らぬまま。